清浄華院は、浄土宗7ケ大本山のうちの一つである。当院の起源は、平安時代の貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、慈覚大師が、御所内に御内仏殿の造営に着手せられ、同5年落成、禁裏内道場として発足したのが、はじまりである。当院は創立以来、天台・真言・仏心・戒律の四宗兼学の道場であった。当院が浄土宗の寺となった経緯は、次のとおりである。
承安5年(1175)、浄土宗の開祖・法然上人が、長年にわたるご研鑚の地、比叡山を去って、東山・吉水の地に草庵を結ばれ、専修念仏の教えを説かれるや、道俗貴賎を問わず、上人の説法を貪り聞いたという。上人の教えに触れようとしたのは、時の天皇も同様であった。後白河・高倉・後鳥羽の三天皇は、法然上人を戒師として御授戒された。こうした因縁により、当院を法然上人に賜われ、以来浄土宗の寺となった。従って当院では、法然上人を御内道場中興の祖、念仏の開祖第一世としている。
法然上人滅後、当院第四世礼阿上人は、念仏の弘通に大いにつくされ、その後を受けられた第五世の向阿上人は、当院を拠点に、八面六臂の活躍をされた。伝道教化のかたわら、国文、和歌の道に秀で、能筆家としても知られる。
当院はまた、創建・転宗のいきさつからもわかるとおり、皇室との関係が極めて深い。第八世の敬法大僧正は、伏見天皇の皇孫で、尊煕親王の子であり、第九世の定玄大僧正は、万里小路仲房郷の子で、学徳兼備の高僧であった。その弟子270人、寺院を開建すること78ケ寺に及んだ、という。
当院は、それまで何度か移転しているが、現在地に落ち着いたのは天正年間である。天下統一をなし遂げた豊臣秀吉が、京都守護の目的で、市内に散在している寺院を京極大路に集めた。こうして出来たのが寺町通で、現在もなお、通りの両側に、大小とりまぜて、数多くの寺院が甍を連ねている。
また当院の皇室との因縁の深さを反映して、大殿右脇霊牌壇には、清和・村上両天皇の尊牌をはじめ、敬法門院、開明門院の他、皇子、皇女等29方の御牌を奉安している。
墓地には、御陽成・後水尾・考明天皇等の皇子、皇女の御陵墓、妙香華院、実相心宮等の各宮家の墓、さらには、政商・立入宗継、国学者・玉松操、茶人・町田秋波、公卿・山科言継、尊王家・姉小路公知等の墓がある。



当院の堂宇には、御影堂(大殿)、大方丈、小方丈、三門、勅使門、御廟、納骨堂、不動堂、鐘楼、宝物庫、茶室、庫裏等がある。諸堂中最大の建物である大殿は、ご本尊として、元祖・法然上人のお姿をうつしたご木像を安置申し上げている所から、御影堂と称する。現在の大殿は、前の建物が明治22年火災により焼失したのを、明治42年再建したものである。
また阿弥陀堂は、当院の現存建物の中では最も古いお堂である。大殿と阿弥陀堂を結ぶ、渡り廊下の中ほどにある納骨堂のご本尊は骨仏である。納骨堂創建以来、約50年間に納められた約3000体の納骨霊位をもとに、昭和62年、造立された。三門の北隣りにある勅使門は、往時、御所より勅使を迎えた名残を今にとどめている。



当院の宝物としては、唐普悦筆・重文「阿弥陀三尊画像」、宅間法眼筆・重文「泣不動縁起絵巻」、大明方蘭披筆「渡宋天神尊影」、向阿上人筆「三部仮名抄」、「浄土五祖真影」、「三十六歌仙」、「叡空上人三部経」等がある。
このうち、普悦の「弥陀三尊像」は、その色彩といい、筆致といい、我々の仏画に対するイメージを越えた独特の魅力に満ちている。また、宅間法眼筆の「泣不動縁起絵巻」は、三井寺の智興上人とその弟子証空との間の、美しい師弟愛にまつわる物語を、一巻の絵巻物にまとめたものである。向阿上人の真筆は上人の能筆をうかがわせるに充分である。
重文・弥陀三尊画像骨仏

●法然上人と浄土宗
●1年の主な行事
●清浄華院までの案内図